ラウル・サンチェス・ガルシアの武道社会学を読む――エリアス理論で日本武道を捉え直す試みと、その射程

History & Research

リード

二〇一八年、Routledge から一冊の英語学術書が刊行された。スペインのスポーツ社会学者、ラウル・サンチェス・ガルシア(Raúl Sánchez García)による The Historical Sociology of Japanese Martial Arts である。Routledge の現行書誌では同書は二五二頁、著作権年は二〇一九年と表示され、ペーパーバック版は二〇二〇年に刊行されている。本書は二〇二〇年に、ノルベルト・エリアス財団のノルベルト・エリアス・ブック・プライズを受賞した。同賞は、エリアスの仕事に重要な刺激を受けた独創的な著作を対象とする賞であり、二〇二〇年の選考では、二〇一八年から二〇一九年に刊行された九冊が候補となった。エリアスの「文明化の過程」理論を日本武道の長期史に適用したこの本は、欧米における日本武道研究の理論水準を一段引き上げた著作として参照されている。日本の空手・武道研究者は本書をどう受け止めるべきか。日本社会学の側からも、武道史研究の側からも、本書への本格的な書評はまだ多くない。本稿では本書の構成と理論的射程を整理したうえで、その評価点と留保点を私見を交えて論じる。[1]

著者の立ち位置

ラウル・サンチェス・ガルシアは、スポーツ社会学を専門としつつ、自身も複数の武道・格闘技を実践してきた「実践する研究者」である。Routledge の著者紹介では、刊行時の所属は Universidad Europea Madrid の School of Sports Science とされ、Aikikai aikidō の初段保持者と記されている。現在はマドリード工科大学(Universidad Politécnica de Madrid)の Facultad de Ciencias de la Actividad Física y del Deporte(INEF)に所属し、レスター大学でスポーツ社会学修士号を取得した経歴を持つ。編著 Fighting Scholars: Habitus and Ethnographies of Martial Arts and Combat Sports(Anthem Press、二〇一三)では、世界各地の格闘技フィールドワーカーを束ねる役回りを果たした。[2]

ここで重要なのは、著者が「英米の理論で日本武道を上から裁断する人」ではなく、「ヨーロッパの社会学伝統と、自分自身の畳の上の経験との双方を背負った人」であるという点である。日本人研究者の多くがそうであるように、彼もまた稽古場での違和感を学問の出発点としている。畳の外で構築された理論と畳の上の身体経験のあいだの、生産的な緊張のなかから本書は書かれている――というのが当サイトの見立てである。

本書の構成と理論的背景

本書は導入とエピローグを含む全一二章構成で、弓術・相撲の初期的痕跡から、流派武術の形成、徳川期の安定と変容、明治・大正・昭和期の国民化・軍事化、戦後の再編・国際化までを射程に収める。柱となるのは、おおむね次の五つの時期区分である。

  1. 古代・中世:弓術・相撲の初期的痕跡と、南北朝・戦国期における複合的な武術流派の成立
  2. 徳川前期:流派武術が安定化し、実戦から距離を取りながら制度化していく過程
  3. 徳川中後期:武芸の変容・普及と、型・礼法・精神性の比重が増していく過程
  4. 明治・大正・昭和前期:武術が日本的アイデンティティと結びつき、学校教育・国家制度・軍事化のなかで再編される過程
  5. 戦後・現代:占領期以後の再編、国際化、スポーツ化・ハイブリッド化の進展

この長期史を貫く理論的背骨が、ノルベルト・エリアスの「文明化の過程(civilizing process)」と「結合態(figuration)」概念である。エリアスは『文明化の過程』(原著一九三九)で、中世から近代の西欧における暴力の独占(国家形成)と感情統制(宮廷文化・礼節)の進展を、長期的な社会過程として描いた。サンチェス・ガルシアは、これに対応する過程を日本社会のなかに探し、(1)幕藩体制下での暴力の脱日常化、(2)武士の宮廷的・儀礼的再編、(3)明治国家形成期における武の国民化、という三段階の「日本的文明化の過程」として武道史を読み替えていく。[3]

さらに本書は、エリック・ダニングらのスポーツ社会学が用いてきた「スポーツ化(sportization / sporticization)」概念――遊戯的暴力がルール・記録・公平性を備えた近代スポーツへと再編されていく過程――を日本武道に適用し、柔道・剣道・空手などがそれぞれ異なる仕方でスポーツ的形式と接続していく過程を比較する。柔道は比較的早く国際スポーツの制度に組み込まれ、剣道は戦後の再出発を経て独自の経路をたどり、空手は流派多元性を抱えながら競技化・国際化を進めた。こうした差異を、日本社会の長期的な国家形成・身体統制・感情統制の過程と接続して読む点が、本書の中核的な読みどころである。

特筆すべき点

第一に、本書は日本武道研究に「長期史としての社会学理論」を持ち込んだ点で画期的である。日本の武道史研究は、流派史・人物史・制度史としては優れた蓄積を持つ一方、欧米社会学の理論的枠組を本格的に導入した長期史叙述はそれほど多くない。井上俊の『武道の誕生』(吉川弘文館、二〇〇四)が明治以降の「武道の発明」を鮮やかに描き、英語論文 “The Invention of the Martial Arts: Kano Jigoro and Kodokan Judo”(Stephen Vlastos編 Mirror of Modernity, UC Press, 一九九八)も読まれているとはいえ、戦国期から現代までを一冊で扱う社会学的通史は、日本語圏でも稀である。サンチェス・ガルシアはその空隙に、エリアス理論という鋭利な道具で切り込んだ。[4]

第二に、本書はナショナリスティックな「日本の武道は日本人にしか理解できない」という言説を、社会学の側から穏やかに、しかし確実に解体する。エリアス的視座から見れば、日本武道は決して特異な現象ではない。それは、近代国家形成と暴力の再編という、人類社会に普遍的に観察されてきた過程の、一つの地域的バリエーションである。この相対化は、武道の固有性を否定するものではない。むしろ、固有性を語るためにこそ、比較の枠組みが必要だという立場である。これは日本側の自己理解にとって、健全な刺激になりうる。なお、本書は日本武道史を主題化するだけでなく、日本・イングランド・フランス・ドイツにおける戦闘実践の発展を比較し、国家形成の社会文化的力学を論じる比較歴史社会学の試みでもある。

第三に、史料と先行研究の扱いが堅実である。本書は、英語圏で利用可能な武道史研究(Bennett, Friday, Hurst らの仕事)に加え、井上俊、薮根敦、藤堂良明、村田直樹ら日本人研究者の英語論文・著書を丁寧に拾い上げている。註と参考文献から、英語で読める日本武道研究の主要文献マップを再構成できるほどである。これは、日本側からの英語発信の重要性を改めて思い知らせる事実でもある。

第四に、本書はノルベルト・エリアス・ブック・プライズを受賞したことで、エリアス研究と東アジア研究の交差点に位置を占めた。同賞は、エリアスの仕事に大きく触発された独創的な著作を対象とする賞であり、二〇二〇年の本書受賞は、エリアス学派が日本武道史という事例を本格的に受け止めた象徴的出来事と言ってよい。本書を読むことは、英語圏社会学の現在地を覗くことでもある。[5]

第五に、コーチ・指導者としての著者の経験が、随所で抽象理論に血を通わせている。たとえば「型」と「乱取り」のあいだの緊張、競技ルールが身体技法をどう書き換えるか、海外道場における「日本らしさ」の演出と消費といった論点は、文献だけからは出てこない肌触りを持っている。社会学書でありながら、実践者にとっても読み応えがある。

留保すべき点

本書の重要性を踏まえたうえで、いくつかの留保も明示しておきたい。

第一に、エリアス理論そのものへの内在的批判は、近年の社会学・歴史学のなかで決して小さくない。「文明化」という語が含意する一方向的進歩観、ヨーロッパを暗黙の基準とする視点、暴力の質的変化を量的減少へと還元する傾向などについて、ジョン・プラット、スティーヴン・メネルらの内部論者を含む長い議論がある。本書はエリアス理論を肯定的に応用するスタンスを採るため、こうした内部論争は前提として処理されており、初学者には理論の射程と限界が見えにくい。日本側の読者は、エリアスの主著と並行してメネルの解説(Norbert Elias: An Introduction)などに目を通したうえで本書に向かうのが望ましい。

第二に、空手の扱いは、柔道・剣道に比べると相対的に薄い。本書全体の頁配分から見れば、柔道(嘉納治五郎・講道館)に最も多くの紙数が割かれ、剣道(大日本武徳会・全日本剣道連盟)がこれに次ぐ。空手はとくに昭和戦後の流派多元化と国際化、東京二〇二〇大会での採用を目前にした競技化の文脈で扱われるが、沖縄空手史そのものへの踏み込みは限定的である。これは本書の射程設定(日本武道の歴史社会学)から見れば妥当でもあるが、空手史研究者の関心からするとやや物足りない。沖縄空手側の歴史については、本書を読んだあとに Quast やパトリック・マッカーシー、嘉手苅徹らの仕事へと進む必要がある。

第三に、英語圏で流通している史料・二次文献への依存度が高いため、史料解釈の微細な部分では、原典の語感や日本語圏の研究蓄積を踏まえれば異なる読みが可能な箇所もある。たとえば嘉納治五郎の発言や、戦前期の武徳会内部の議論をめぐる箇所では、用語の翻訳や文脈の切り取り方が解釈を左右しうる。これは著者個人の問題というより、英語圏の日本武道研究全体が抱える構造的制約である。

第四に、ジェンダーの問題系は、本書が明示的に触れている重要な論点である一方、独立した主題としてはなお拡張の余地がある。Routledge の書誌説明も、本書が武道における女性の役割という「ジェンダー上の盲点」に光を当てると説明している。したがって「まったく扱っていない」と見るのは正確ではない。ただし、武道の身体観・組織文化・競技制度におけるジェンダー構造を、女性武道史や女性の自己防衛運動史の研究と本格的に接続する作業は、なお今後の課題として残る。

第五に、二〇一八年の刊行であるため、二〇二〇年代以降の動向(コロナ禍下の武道、東京二〇二〇空手競技、MMA・グラップリングの一層のグローバル化)は射程外である。今後の改訂版もしくは続編が待たれる。

日本の空手研究にとっての含意

それでも、本書を日本の空手研究者が読む意味は大きい。私見を整理しておく。

まず、本書は空手史を「日本武道史」の一部として相対化する視座を提供する。沖縄空手史を独立した固有史として扱う立場と、本土武道史の一支流として扱う立場のあいだには、長い緊張がある。サンチェス・ガルシアは、空手の本土移入後の歩み(大学空手部、武徳会への加盟、戦後の流派分立、競技化)を、柔道・剣道と同じ「武道のスポーツ化」のフレームで論じる。この扱いに違和感を抱く沖縄空手側の研究者は少なくないだろう。だが、その違和感こそ重要である。違和感を言語化することが、沖縄空手史研究の理論的鋭さを増す契機になりうる。

次に、本書は「武道精神」「礼」「残心」といった、ともすれば本質主義に流れがちな概念を、社会過程の産物として扱う作法を示してくれる。これは、価値を下げる作業ではなく、価値を歴史化する作業である。歴史化された価値は脆くなるどころか、むしろ何度でも再選択可能なものとして強くなる。本書は、武道の精神性を語る者に、より長い射程の語彙を与えてくれる。

さらに、海外で空手を語る際の理論的足場として、本書は実用的でもある。英語圏の体育系大学院・スポーツ社会学のセミナーで日本武道を論じる場面では、本書はほぼ必ず参照される。日本側の研究を英語で発信する際に、本書を批判的参照点として明示することは、議論を国際的な土俵に乗せる近道になる。

読みどころと推奨ルート

本書を読みこなすために、当サイトとしては次のような読み順を勧めたい。

  1. 序章で著者の問題設定とエリアス理論の概要を押さえる。
  2. 戦国・江戸期を扱う章を読み、「武芸の型化と精神化」というプロセスの理論的捉え方を理解する。
  3. 明治・大正期を扱う章を、井上俊『武道の誕生』および山田奨治『禅という名の日本丸』(英訳 Shots in the Dark)と並行して読む。三者がほぼ同じ時期を扱いながら、結論の力点が異なる点に注意する。[6]
  4. 戦後・現代を扱う章を、柔道国際化と東京二〇二〇大会に関する近年の研究と接続する。
  5. 終章を読んだあとで、編著 Fighting Scholars に進み、世界各地のフィールドワークと突き合わせる。

エリアス理論そのものに自信が持てない読者は、メネルの解説書や、エリアス本人の『文明化の過程(I・II)』邦訳(法政大学出版局)を傍らに置くと、本書の議論が立体的に見えてくる。[7]

おわりに

サンチェス・ガルシアの本書は、日本武道を「内側から」語ってきた長い伝統に、外側からの理論的視座を真摯にぶつけた試みである。エリアス理論の応用が常に成功しているわけでもなく、空手の扱いに不満が残らないわけでもない。それでも、本書を読み、批判し、応答することは、日本武道研究を「内輪の継承」から「世界に開かれた学問」へと押し開く確実な一歩になる。

ノルベルト・エリアス・ブック・プライズという欧州社会学のお墨付きを得た本書を、日本の武道研究者が黙殺するのは惜しい。賛同するにせよ反論するにせよ、まずは精読することから始めたい。理論には理論で、史料には史料で応えるという、研究の基本動作のなかで、本書はきわめて鍛えがいのある相手である。

参考URL

タイトルとURLをコピーしました